島をでて大陸を歩くと

インカのナイフのお土産
 日本を出て海外を歩くと、その文化の違いには驚かされる。この文化の違いを実感することで、今自分が生活の場としている日本を見直す意識が生まれてくる。日本という国は現代社会が近代化を求め、がむしゃらに走り続け成功した国である。小さな土地に小さな家を天に向かって建てて価値を上げ、まじめに商売をしてそのお金で高い土地と家を買っている。東京に生活していると、土に接しない日々が続き、草の臭いをほとんど感じることなく四季を過ごしてしまう。湿度の高い梅雨どきでさえ伝染病などは蔓延せず、どのお店に入っても清潔この上ない。町には真夜中になっても明るさは消えず、何故か子供の姿さえ見受けられる。人々は花粉症に悩まされ、栄養過剰による成人病が死亡率の上位を占めている。毎朝、会話も挨拶もないぎゅうぎゅう詰めの電車が、秒間隔で走っている。改めて日本を見てみると何を求めて突き進んできたのだろうと、疑念が頭に浮かんでくる。現代社会を否定するようなこの疑問は、感じても口に出してもならないタブーの様な存在である。こんな中、世界一の最長寿国日本は、多くの文化を巧みに受け入れる事に長け、他国がうらやむ発展を今も遂げているのである。

兎の目

 発展途上国と呼ばれている国を歩いていると、どの国でも感じることがある。子供達の目の輝きである。明らかに日本の子供達には見られない無邪気な微笑みと大きな瞳の中の輝きを持っている。民族の違いだけではないこの差は、どうして生まれてくるのだろう。生まれたばかりの赤ちゃんを背負った10歳前後の子供達が、リュックを背負って歩き回る私の後をニコニコしてついてくる。どこで覚えたのか「トウキョ」とか「コンニチハ」と言って話しかけてくる。人懐っこさとこの愛くるしい笑顔にかなうものは何もない。金銭的にはとても裕福には見えないこの子供達の屈託のなさこそ、日本が近代化と共に失ってきた貴重品である。夜10時頃まで冷たいビルの学習塾の中で、時にはパソコンを前にして勉強し続ける子供達にこの光が見えないのはあたりまえである。自然に接する時間と環境をお金を出して無理に手を入れるのではなく、当たり前のこととして生活の周りに存在する世界で子供は育って欲しい。

食習慣

 長い間生活してきた習慣を変える事は容易ではない。特に食生活となると、海外で困った方も多いはずである。私にとってはめずらしく食事付きのツアーに初めて参加した時のことである。その中で旅行2日目で50歳ぐらいのおじさんがうどんを食べたいとブツブツと言っているのには驚いた。私自身は、海外旅行で食事で苦労したことはほとんどない。日本食が嫌いというわけではなく、大好きである。
 まず第一に海外の食事が自分の口に合わないのは覚悟している。お腹を壊すことさえ覚悟している。私が知りたいことの中に現地の人々がどんな食事をして、どんな味を好んでいるかというのも入っている事もある。現地の味が日本人の味覚に合わないことがあるのは当たり前で、おいしければラッキーである。えてして現地の人々が食べている食事はおいしい。特にその土地の気候に慣れてからは、まずおいしい。現地の食事という物はそういうものである。旅行者用の観光レストランで食べる民族料理よりもおいしい。癖はあるが独特の味わいがあるし、その土地の気候にあっているのである。私が舌で体で感じたいのはこの味わいで、これこそ海外旅行の醍醐味の一つであろう。見たこともない味わったことのない食事は、心を躍らせるものである。先ほど書いたツアーの中で、私の食事の評価はことごとくツアーの参加者と反対であった。ほとんどの人が今まで食べたことのない味を拒絶し、日本独特の味付けを海外でも求めるのである。ツアーの添乗員は、レストランの支配人と事前にメニューの交渉をして少しでも参加者の受けのいいように日本人用の食事を用意している。普段フリーで現地の人々のためのレストランに通っている私が、ツアーに参加したことが間違っていると実感した。民族の体質の違いや年齢による適応力の低下は仕方がないが、多くの人が現地食に適用できず、その意志さえないことに私は少し落胆した。どの国に行っても欧米風の生活と食事をできる現状を考えると、欧米人もやはり同じなのだろう。やはり人にはそれぞれの旅のスタイルがある。

雲の上から

 飛行機の上から下を眺めると、
「いったい、地球上に人間のいない場所はあるのだろうか」
 と感じてしまう。夜の地上を眺めると、どこかしら光が見つけられる。シベリアや砂漠、海の上はさすがに真っ暗であるが、ほとんどの場所で人が住んでいる証である電灯の光がポツリ、ポツリと眺められる。少し多すぎるのではないか。生物学者は、地球上に適正な人口を計算しているが、その値を無視するごとくどんとんと世界の人口は増加してる。どこかに生物として自然の摂理を無視する行為をしているのだが、近代の歴史の中では正解は出ていない。出ていたとしてもその答えは受け入れられないであろう。人口増加の危機感だけは増加し、世界会議も開催されているが、国家間の争いになるだけである。少し、人間本意をやめないとどうにもならないような気がする。

価値観

 価値観の違いこそ各国の文化である。他国に行ってこの価値観の違いを感じるのは非常に楽しい。世界の広さと民族の相違、積み重ねてきた歴史の影響や生まれてきた独自の感性など、長い期間滞在すればするほどはっきり見えてくる。できれば歩き回りたい。移動する速度にあわせて見えてくる世界が変わり、目の高さもバスなどに乗らずに歩くと住んでいる人々の生活が見えてくる。いつも気を付けていることは、自分の価値観を取り払うことである。最初の驚きは自分の価値観から生まれてくるものだが、続いて生まれてくるものは人間としての価値観を持ちたいと思っている。生活様式は様々だが、喜びや安らぎは共通であろうし、悲しみや怒りが生まれてくる根底にある民族性を肌で感じることが一番の感動になる。自分の持つ価値観を旅先で押しつける事が、旅する人間としては避けたいといつも感じている。

自然

 日本の自然はすばらしい。国土の2/3を森に囲まれ、四季を目で体で感じることができる国は少ないであろう。人間は、生活する環境に見られない風景を見ると感動しがちである。その点日本人は目が肥えているかもしれない。オートキャンプ場が流行っているのは逆に少し寂しいが、凝縮された自然は世界の中でも有数のものが日本には存在する。しかし、広大さ、雄大さは世界の自然にはかなわない。これは当たり前のことで、今ある密度の濃い日本の自然を大事にしてゆきたい。近くにいればいるほどそのすばらしさに気付かないきらいがあるが、開発の名を借りたかけがえのない遺産の崩壊を見定める目を養わなければならない。

巨石の遺跡

 私は巨石文明が好きである。とうてい人間が動かすことができそうもない巨石が積み上げられた古代の神殿は、見ていると時間を経つのを忘れてしまう。この点では日本には匹敵する遺跡は発見されていない。木造の建築物には目を見張るものがある日本も、ないものねだりであろう巨石建築物への憧れを持つ私の旅行先としては当分後回しになりそうである。長い年月を経てそびえ立つものは石でさえ植物でさえその存在自体に力を感じる。手のひらを当ててその鼓動を感じる体験は、本やテレビでは味わえない貴重な瞬間であり、少しづつ都会で蓄積されたストレスを癒してくれる。

宗教

 ほとんどの人が自分の宗派を実感していない日本という国は特異である。生まれたとき、結婚するとき、死ぬとき。宗教の臭いを感じるのは日本ではこれくらいである。人生の一大事を自分の中で正当化するための手段として、スポット的に宗教色が出てきて、さらに神道やキリスト教や仏教が混在している。人間は自分を正当化しないと生きてゆけない。矛盾や苦悩が生まれると何らかの形で正当化する。人生を悲しみや苦しみを感じずに終わる人はいない。その折々で免罪符として存在する宗教は、なかなか自分を納得させることのできない苦悩を和らげてくれる。全ての事柄に筋道を通せる事などない人生には、宗教が必要な人々は多いはずである。ほとんどの宗教を拒絶する日本に比べて、宗教が社会にとけ込んでいる国々にはやすらぎと人間味が感じられる。体系化された宗教でなくでも、祖先の教えでもいい。近代化ばかり求めるのではなく、人間にとって必要なものについても真剣に考えをめぐらせておくべきである。自分で主義を決めてもいい。多くの心理的障壁に対して洞察する文化を育てなければならない。自分が生きる糧とする精神的後ろ盾が、生活する社会にとってどんな位置に属するか、世界的にみると受け入れられるのか等、自分と社会との関係を洞察することが必要である。免疫のない人が壁にぶつかってからでは、変な宗教にお金をだまし取られた等という問題になったりするのである。

階級社会

 階級社会は不快である。世界を廻ると階級社会の方が多いのである。中流意識が強い日本では、経済力の差ぐらいしか感じられない階級差別は、一度世界に出るとはっきりと感じられる敷居が存在する。社会秩序のひとつとして存在する階級社会を急に取り除くことはできない。生活する人の重要な自己の存在を具現化する手段でもある。階級が無ければ拠り所をなくす人もいるだろう。宗教を長い年月をかけて絡み合って存在する場合がほとんどで、望ましくないことはわかっているが、取り除けないのが現実で、現代では経済の発展とも大きく関わっている。日本は経済的格差(貧富の差)を目に見えない状態にするとともに、階級差別を意識する事が減少したいい成功例であろう。人と較べることでしか自分の位置を確認できないためで、自己の満足を比較でしかえられない現代人の特性のひとつから生まれるのであろう。自分の中から生まれる価値観を作り出したいものである。

発展途上国のめざすもの

 日本が近代化と称して進んできた道を、発展途上国(私はこの言葉はあんまり好きではない)と呼ばれる国々は追いかけている。私の一種のエゴであろうが、これには人類の英知と冷静さを感じられない。たぶん、欧米や日本の犯した過ちを繰り返すであろう。過ちという表現は誤解をまねかねないが、融資とか援助の名を借りた相手側の望んでいない近代化の押しつけや誘発だけは避ける意識が大事であろう。人によって大事なものは異なるのだし、地球に住んでいるのは人間だけではないのである。他人でさえも難しく、さらに他の生物の思いを聞き取れない近代人には、人間主体の価値観を見直す努力が必要である。

先進国のめざすもの

 私にとっては珍しく先進国であるドイツをすこしかじった。航空券の関係でフランクフルトによることができそうなので少しだけ廻ることができた。日本も世界一の平均寿命を誇る先進国だが、ドイツには全く異なる「英知」を感じた。自然との共生と伝統を重んじているのがひしひしと感じられるのである。さらに住んでいる人々は厳格ではあるが、のどかでおだやかである。先進国なのに時間が経つのがゆったりと感じられるのである。大事にすべきものがはっきり見えているのであろう。物質的や部分的ではなく、精神的に少し見習った方がいいかもしれない。日本はどんな文化も受け入れる能力はたけているのだから。
順路:バイク個人旅行のすすめ